後編:腸内細菌を研究するのが難しい理由
導入
前編では、「腸内細菌は酸素がない環境で生きている」という不思議な事実を紹介しました。 では、そんな腸内細菌を研究で明らかにするには、どんな課題があるのでしょうか?
実は、この分野の研究は非常に難しく、 世界中の研究者が試行錯誤を続けています。
ここでは、その理由を4つに分けてお話しします。
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1. 腸内細菌同士が複雑に関係している
腸の中には1000種類以上の菌がすんでおり、 お互いに物質をやり取りしながら生きています。
ある菌が作った物質を、別の菌がさらに変換して、 また別の菌が利用する――まるでリレーのような関係です。 この複雑なネットワークのせいで、 「どの菌がどんな影響を与えたのか」を正確に特定するのがとても難しいのです。
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2. 無菌マウスは生物的に弱い
腸内細菌の影響を調べるために、 あえて「腸内細菌を一切持たないマウス(無菌マウス)」が使われます。 特定の菌だけを入れて観察することで、菌の働きを直接調べることができます。
しかし、無菌マウスは通常のマウスよりも免疫が弱く、 生きる力そのものが低下してしまうことがわかっています。 そのため、倫理的にも実験数を減らす工夫が必要です。
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3. 人工的な腸環境を再現するのが難しい
近年では「試験管の中で腸を再現する」研究(in vitro実験)が進んでいます。 これは、動物を使わずにヒトの細胞で実験できるため注目されています。
ところが、人間の細胞は酸素がないと死んでしまいます。 一方で腸内細菌は酸素があると死んでしまう種類も多く、 酸素がある部分とない部分を同時に作り出すのは非常に難しいのです。
実際の腸では、酸素濃度が少しずつ変化する「勾配」があり、 そのわずかな違いによってすむ菌の種類も変わります。 このような微妙な環境を再現する技術は、まだ発展途上です。
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4. 微生物を"狙って"増やすのが難しい
ある菌の性質を詳しく知りたいとき、 「その菌だけを培養して増やす」ことが理想的です。 しかし、実際にはそれが簡単ではありません。
自然界に存在する微生物のうち、 約99%はまだ培養できていないと言われています[1]。 これは、土壌や海水などの環境微生物の話です。
一方で、腸内細菌は比較的よく培養されているグループです。 ヒト腸内から分離・同定されている菌は数百種以上あり、 多くの代表的な菌種については培養条件が確立されています。
とはいえ、腸内細菌のすべてを自在に増やせるわけではありません。 腸の中には、他の菌が作り出す栄養や代謝産物を頼りにしか生きられない菌もいます。 つまり、単独では育たず、他の菌との共生環境を再現しないと増えないのです。
加えて、pH・温度・酸素濃度・栄養バランスなど、 微妙な条件の違いが生育に大きく影響します。 そのため、腸内で普通に存在している菌でも、 試験管の中では増えなかったり、逆に優勢になりすぎたりします。
研究者たちはこの問題を解決するために、 微小な水滴の中で菌を個別に育てるマイクロドロップレット技術や、 複数の菌を共に育てる共培養法などを開発しています。 これらの方法は、これまで難しかった菌を育てる手がかりとして注目されています。
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結論
腸内細菌の研究は、複雑で手間のかかる分野です。 しかし、私たちの健康や病気の仕組みを理解するためには欠かせません。
私自身は腸内細菌を専門に研究しているわけではありませんが、 学部時代に微生物学を学び、嫌気性微生物を扱った経験から、 この分野の奥深さと難しさを実感しています。
今後も、腸内環境を正しく理解し、 「なんとなく体に良さそう」で終わらない科学的な知見を積み重ねていくことが、 ヘルスケアの未来を形づくる鍵になると感じています。
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参考文献
[1] Karen G. Lloyd, et al., mSystems, 2018