[考察] VEGFはがんの味方か、それとも敵か?
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導入
がんは日本人の死因の第1位であり、その約90%は「転移性がん」と呼ばれる、原発巣から他の臓器へ広がるタイプです[1-3]。この転移は主に血管やリンパ管を介して行われます[4]。
がん細胞は転移するために、VEGF(血管内皮成長因子)という物質を放出し、周囲の血管を引き寄せて"橋"をかけるように自らの元へ血管を誘導します。その後、がん細胞の一部が血管内に侵入し、血流に乗って別の臓器に到達、そこでもう一度血管外に出て新たな「巣」を形成します。これが転移です。
一方で、VEGFは運動の文脈では、筋肉に新しい血管をつくる良い因子としてポジティブに語られることも多く、健康促進や体力向上の一助として注目されています。
では結局、VEGFは「良いやつ」なのか「悪いやつ」なのか? 本稿ではその二面性を考察し、さらに「運動はがん予防に良い」と言われる一方で、「がんにかかってから運動をすると、VEGFを介して転移を促進してしまうのでは?」という素朴な疑問にまで踏み込んでみたいと思います。
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VEGFは「良いやつ」なのか「悪いやつ」なのか?
まず、VEGFとはVascular Endothelial Growth Factorの略で、血管内皮細胞に「増えろ」というシグナルを送る分子です。VEGFを受け取った血管細胞は、そこから新しい血管を"ニョキッ"と伸ばしていきます。
なぜ新しい血管を作る必要があるのでしょうか? 私たちの体の組織に酸素や栄養を届けられる距離は、血管から200μm程度しかありません。それ以上離れると、酸素も栄養も届かなくなってしまうため、必要に応じて新しい血管が作られるのです。
これは「栄養が足りないところに新たな供給路を作る」というごく自然な生命維持の仕組みであり、VEGFは生きていくために必要不可欠な因子です。「良い」「悪い」ではなく、状況次第でどちらにもなり得る存在といえます。
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がんにおけるVEGFの働き
がん細胞もまた、VEGFの恩恵を受けます。がん細胞は成長するにつれ内部が低酸素状態になりやすく、そこから脱出しようとするため、VEGFを大量に放出します。これにより、近くの血管を自分のところまで引き寄せて栄養と酸素を確保し、さらには血管内に侵入して転移する足場を作ります。
VEGFはまた、がんの血管を"ゆるくて漏れやすい構造"に変えることがあり、それによってがん細胞が血管内に侵入しやすくなります。この点が、VEGFががんにおいて「悪者」とされる理由の一つです。
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VEGFが放出される仕組み
VEGFが放出される鍵となるのが、「酸素の不足」です。組織が低酸素状態になると、HIF-1α(低酸素誘導因子)というタンパク質が安定化し、細胞の核へと移動します。そこでVEGFやアンジオポエチン-2など、血管新生を促す因子の産生を誘導します[5]。
逆に、酸素が十分にある状態では、HIF-1αには「目印(ユビキチン)」が付き、プロテアソームによって速やかに分解されるため、VEGFは作られません。
がん細胞は常に低酸素にさらされているため、HIF-1αが安定化し、VEGFの産生が促進されるのです。
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運動するとVEGFが増える=がんが悪化する?
ここで一つの疑問が浮かびます。 「運動によってもVEGFが増えるなら、がん患者が運動すると逆効果なのでは?」
この問いに対する答えは、「一概にはそうとは言えない」です。
確かに、運動中は筋肉が一時的に酸素不足になるため、HIF-1αが活性化し、VEGFの分泌が増えます。しかし、そのVEGFは正常組織によって適切に制御されながら産生されており、構造的に整った正常な血管新生を促すものです。
一方で、がんによって産生されるVEGFは、暴走的な量で放出され、異常で不安定な血管を作るのが特徴です。この違いは極めて重要です。
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運動はがんにとってプラスかマイナスか?
最近の大規模研究やメタ解析では、がん患者が運動を習慣化すると生存率が高くなることが示されています[6-9]。
その背景には次の仕組みが考えられます:
• 免疫強化:運動でNK細胞やT細胞が活性化し、がん細胞攻撃力が増す。
• 血管正常化:運動は腫瘍血管を整え、抗がん剤が届きやすくなる。
• ストレス軽減:心身のストレスを下げ、炎症やホルモン異常を抑える。
重要なのは、運動で一時的に増えるVEGFは正常な血管新生を促すのに対し、がん細胞由来のVEGFは異常で不安定な血管を作る点です。そのため「運動によるVEGF増加=がん悪化」にはならず、むしろ治療を助ける要因と考えられています。
全体を今一度俯瞰して見てみましょう。気をつけて欲しいことは、VEGFがいつどんな場面で放出されているかです。がんのVEGF放出はがん自身が酸素がないために自発的に産生するものです。この文脈におけるVEGF産生には運動は絡んでいないと考えられます。がんは正常細胞と違い独立したプログラムで動いているとみなされることもあり、運動したからといってがんに新しい栄養、血管が供給されることは十分なエビデンスはありませんが低い可能性があります。むしろ前述の文献から、運動はポジティブな働きがあると言えます。
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結論
VEGFは、「良い」「悪い」といった単純なラベルでは語れない、非常に興味深い因子です。
がんにとっては転移を促進する「味方」となり得る一方で、運動によって生まれるVEGFは、体を守り、強くするための「味方」でもあります。
VEGFがどのように、どこで、誰のために働いているのか? この"文脈"こそが重要なのです。
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用語解説
•転移性がん:原発巣から別の臓器へとがん細胞が移動し、そこでもう一度増殖した状態のがん。
•VEGF(血管内皮成長因子):血管内皮細胞の成長を促進するシグナルタンパク質。血管新生を誘導する。
•HIF-1α(低酸素誘導因子):酸素不足のときに活性化され、VEGFなどの産生を促す。
•アンジオポエチン-2:VEGFと協力して血管の再構築や血管新生を促すタンパク質。血管安定化にはアンジオポエチン-1が作用する。
•ユビキチン化:細胞内でタンパク質を分解するための「目印」を付ける仕組み。これにより不要なタンパク質は分解される。
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参考文献
- 厚生労働省「人口動態統計」
- A. Mielgo, Michael C. Schmid et.al, Cold Spring Harb Perspect Med, 2020.
- F.J. Lowery, Dihua Yu et.al, BBA Rev Cancer, 2017.
- D. R. Welch, Douglas R. Hurst et.al, AACR, 2019.
- P.H. Maxwell, P. J. Ratcliffe, Semin. Cell Dev. Biol., 2002.
- A.V. Patel, C.M. Friedenreich et.al, JAMA Oncol, 2025.
- K.S. Courneya, C.M. Friedenreich et.al, J Clin Oncol, 2019.
- L. Pedersen, P. Hojman et.al, Cell Metab, 2016.
- L.W. Jones, R.J. Gilbertson et.al, Cancer Res, 2012.